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風水学研究所 玄武

 

        絵島と生島の悲恋物語 

     
下写真【絵島囲み屋敷入口】
    大奥の女中「絵島」と人気役者であった「生島新五郎」との悲恋物語です。
当時、大奥女中と役者との恋愛は御法度でした。

絵島は宝永元年、江戸時代六代将軍家宣の愛妾である、七代将軍家綱の生母「月光院」に大奥女中として仕えることになりました。絵島は容貌が美しく、同僚にも慕われ月光院の信頼も厚く、出世して大年寄となりました。  
 
その後、絵島は正徳四年(1714年)芝居見物で知り合った人気役者「生島新五郎」と馴染を重ねるようになりました。
     
そして、大奥の権力争いから増上寺、墓参りの芝居見物がとがめられ、このことで絵島は公務をおろそかにしたということで裁きを受ける身となりました。そして生島新五郎との関係も暴露されることになりました。

絵島と浮名を流した「生島新五郎」は見宅島に遠流され、「絵島」は高遠に遠流の身となりました。絵島は、火打ち平らの囲み屋敷に幽閉されたのです。
絵島は最初、死罪の判決を受けたのですが、月光院の口添えがあったため死罪は免れ、高遠に遠流(おんる・・・死ぬまで流される)ということになりました。
現在、この絵島が流されていた囲み屋敷が高遠歴史博物館にありますが、残されていた見取り図を参考に、昭和42年に復元されたものです。(下記写真)
 

 
 ●歴史博物館「絵島囲み屋敷」(長野県伊那市高遠)
  絵島は高遠に遠流の身となってから、質素な生活の中で日蓮宗に帰依して精進の日々を送りました。
屋敷は格子や矢来で厳重に囲まれており、昼夜10人近くに見張られていたといいます。
こうして絵島は28年を高遠で過ごし、二度と江戸の土を踏むことなく61才で病没していくのです。
絵島が流されたのは33歳。高遠に在ること28年、寛保元年(1741年)に没しました。

「絵島」と「生島」の二人は別々の生涯を終えました。しかし後に、これを不憫に思った方が、生島の墓の土を絵島の墓に運び、一緒に埋設したそうです。
現在、絵島の墓は高遠の「蓮華寺」に葬られています。
【絵島囲み屋敷入口】
   

  

絵島が幽閉された屋敷『絵島囲み屋敷』は、高遠城跡地付近の高遠歴史博物館の敷地内に再建され、今は観光スポットとして多くの人々が訪れています。
高遠城は長野県伊那市高遠町にあるお城です。
 
写真は、絵島が幽閉されていた
『絵島囲み屋敷』です。
 
【左上写真】は、門までのアプローチです。
【左写真】は、屋敷の間取り図です。
【左下写真】は、絵島が半生を過ごした部屋です。
【右下写真】は、台所となります。

     

 
     

 ●「絵島のお墓」蓮華寺にて(長野県伊那市高遠)
 
「蓮華寺」(日蓮宗)は延文五年(1360年)に藤沢郷北原にて開創されましたが、その後、慶安四年(1651 年) に現在の場所に移りました。

 
【蓮華寺 入口階段】
 
【蓮華寺 本堂】

 
絵島のお墓に行くには、向かって本堂の左後方に並んでいる檀家のお墓を通り過ぎた先にあります。この道は上り坂です。この坂を登りつめた先の頂上に絵島のお墓があります。
かなり急な坂を登ります。やっとたどり着いた頂上の先には「七面堂」が見えてきます。このお堂には身延山久遠寺の総鎮守である「七面明神」が祀られております。

 
【本堂左後方のお墓】
 
【七面堂】

 
この七面堂の横に「絵島」のお墓があります。やっと会えた、とういう感じです。絵島像は、かなり高い場所の山の中腹から民家を見下ろしています。
絵島のお墓は、最初は本堂近くでひっそりとたたずんでおりましたが、平成四年(1992年)にお寺の頂上に移されました。そのとき絵島のお墓と共に「絵島像」も建てられたようです。

 
【絵島のお墓】
 
【絵島像】



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