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高遠城」の歴史
 
 
    高遠城の歴史   高遠城は、長野県高遠町にあったお城です
  高遠城は、天文14年(1545)諏訪氏の一族で、当時一帯を領していた高遠氏を破った武田晴信(信玄)が伊那谷支配の一拠点とし築いた新城です。
信玄が没し、子の勝頼の時代、天正10年(1582)二月、織田信長は急激に勢いを失った。
武田氏を一挙に滅ぼすため伊那口より長男信忠の率いる五万の兵を送り込む。高遠城を守る26歳の青年城主・仁科五郎盛信(信玄の五男)は三千の手兵をもって敢然として大軍を迎え撃ったが兵力の差はいかんともしがたく三千の兵はことごとく討ち死に、城主盛信も割腹した。この戦いについては園内の立て札「古戦場跡(高遠城の戦い」に詳しい。

この後、武田勝頼は諏訪上原城から新府に退き天目山で自害、武田氏の時代が終わる。
しかし同年10月の本能寺の変で信長も滅し、高遠城主は度々代わるが、やがて武田氏築城後の最初の城将であった保科氏が家康の傘下に入って伊那半郡を拝し高遠城主となる。保科氏は小田原征伐後、一時下総多古に所替えとなるが、江戸幕府の成立とともに再び高遠城主となる。
以後、鳥居氏を経て、元禄4年(1691)内藤清枚が三万五千石で入城、代々が継承して明治維新を迎える。現在では石垣・空堀・土塁を残すのみとなった。 

  上記内容は、下記HPより参考にしました↓
 http://www.h2.dion.ne.jp/~hemlock/private4ac.htm

伊那市高遠町のHPは↓
 http://inashi-kankoukyoukai.jp/

 
     
上写真は、高遠の桜(空堀から撮影)
 
 

下の図は、旧「高遠城」の地図です。「池上秀畝」という方の筆です。
ここは前は「高遠城」というお城でした。南側が開けており山を背にして建てられています。
現在は「高遠城址公園」として桜の名所となっており、毎年4月になると高遠城址公園の桜は見事な花を咲かせます。桜の種類は「タカトウコヒガンザクラ」で色は濃いピンクでとても映える色合いです。
この高遠城には、徳川将軍にまつわる歴史が、いくつかあります。

この地図は現在「高遠町歴史博物館」に展示されています。
図を見ると、土手の窪みのような所がいくつかありますが、これは「空堀」といって敵からの侵略を防ぐ為の「お堀」です。「高遠城」の図の上に桜の写真がありますが、これは「空堀」から撮影したものです。
戦国時代から江戸時代にかけて伊那の地は高遠城を中心に栄えていました。
260年に及ぶ徳川治世の中で、高遠藩主は保科氏、鳥居氏、内藤氏と引き継がれ、政治・経済の中心地として発展しました。
高遠は、とりわけ文化・学問の地としても知られており、当時の藩校であった「進徳館」からは、明治時代を支えた優れた人材が多く生み出されました。
 

上図の「高遠城」の地図の跡地は、現在、桜の名所「高遠城址公園」として毎年多くの方が訪れています。
下図は、現在の「高遠城址公園の桜」の案内図として配布されたものです。
上の「高遠城」の図と見比べると、建物こそは現存が少ないものの、当時の配置のなごりがいくつも残っています。空堀もいくつか残っていますよね。
 
 
(「パノラマ伊那市」の資料より)

 

【高遠にまつわる名所・物語】
第二代将軍・秀忠の隠し子「保科正之」
  第二代将軍の隠し子だった保科正之は、高遠城で19才まで育てられました。
 
大奥秘話「絵島」と「生島」の悲恋物語
  徳川の大奥女中「絵島」と人気役者であった「生島新五郎」との悲恋物語があります。
 
高遠城の歴史
  高遠城は、武田晴信(信玄)が伊那谷支配の一拠点として築いた新城です。
 
高遠城址公園の桜
  高遠城の跡地は、現在は桜の名所「高遠の桜」として全国的に有名です。
 
高遠の山中にたたずむ陰陽石
  松林の中腹の場所に、なぜか?陰と陽の石が少し離れて並んでいます。
 

 
 
 
 
 http://www.genbu.gr.jp/ 高遠の歴史について